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HN:
ヤマト(^_^)v
HP:
性別:
男性
趣味:
サッカー日本代表の応援
自己紹介:
■技術士(総合技術監理部門)
■技術士(建設部門:土質及び基礎、建設環境)
■技術士(農業部門:農業土木)
■上級技術者〔施工・マネジメント〕(土木学会)
□のり面施工管理技術者
□一級土木施工管理技士
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ヤマトです。
u.yan氏のコメントにこだわった理由の一つが、タイトルに示した橋梁にありました。
HP◆●▼ ヤマトの視点 ▼●◆土木技術者列伝で名島川橋梁をご紹介させて頂いたことがございます。
この時、実は名島橋にするか、名島川橋梁にするか、悩んだ記憶があります。
そして、設計者のお名前に確信が持てなかったこと、並びに人となりを掴みきれなかったため、名島橋のご紹介を断念した経緯があったように思います。
名島橋
●全長:204.1m
●全幅:24.0m
●構造:鉄筋コンクリートアーチ橋(7連)
●完成:昭和8年3月
●設計者:後藤龍雄
●総工費:416,883円(S8当時)
名島橋は、福岡市東区の多々良川に架けられ橋で、北部九州地域と福岡都心部を結ぶ国道3号の道路橋として、産業・経済・文化の発展に大きな役割を果たしてきました。
名島橋を往来する車の数は、1日に約6万台。
まさに福岡の東玄関を飾るシンボルと言えます。
名島橋の設計者と言われている、福岡県第2号国道改築事務所の所長・後藤龍雄氏や、工事主任として名島橋の建設を支えてきた、名島大橋建設事務所・公務課長だった七俵仙太郎氏をはじめ、数えきれないほどたくさんの人の夢と熱い思いが結集して、名島橋は誕生したと言われています。
着工から2年3ヶ月経過した昭和8年(1933年)、名島橋は無事竣工しています。
竣工式は、たくさんの来賓の参列を受け、随分と盛大に執り行われたようです。
この竣工式の様子は、当時の福岡日日新聞にも、大きく報道された記事が残されています。
名島橋が、地元にとってだけではなく、福岡発展のための明るい象徴であったことが理解できます。
随分と立派な橋梁であるとともに、美しさという点でも比類無き橋梁と言えるでしょう。
しかし、どうしても理解できないことは、どうしてあの時代にこのような橋梁が架設できたのかという疑問に対する答えです。
下に参考のURLを記載させて頂きますが、そこに記載されている仮説と解釈にを以下に掲載させて頂きます。
○中国侵攻を視野に入れた軍事物資輸送路として、または戦車が通れる広く頑丈な橋として建設されたのではないか?
白い御影石で覆われた名島橋は目立ちすぎて、軍用の可能性は低い。
○香椎沖の埋立地への輸送経路として、路面電車を通す計画だったのではないか?
既にJR(当時は国鉄)鹿児島本線と西鉄宮地岳線(旧・博多湾鉄道)があり、さらにこの二つ以外に鉄道輸送路が必要だったかと言われれば、はなはだ疑問です。
○名島水上飛行場を国際空港として活用するために広い道路が必要だったのではないか?若しくは、名島橋自体を非常時の滑走路として使用するつもりだったのではないか?
名島水上飛行場は、名島橋完成の翌年に閉鎖されています。また、名島橋から続く国道の整備は戦後のことですから、代用滑走路説は不確かと言わざるを得ません。
○大正12年に発生した関東大震災で、幅員の狭い橋の周辺で混乱が起きたことで被害が大きくなったと言われていることから、その教訓を取り入れて幅員を広くしたのではないか?
名島橋の兄弟橋である萬代橋が関東大震災後の架橋技術から学んだ部分が多かったことから、名島橋にもその考えが反映された可能性は否定できません。
それにしても設計者にお名前の上がっている後藤龍雄氏とはいったいどのような方なのか、この方がキーを握っているのだろうと思います。
福岡だと九州人さん、何か分かれば教えてくださいませんか?
お手数をおかけ致しますが、宜しくお願い致します。
【参考URL】
○名島橋歴史ロマン
○道守九州会議【vol1】名島橋
○名島橋
○近代化産業遺産(名島橋)
では今日もBreakThroughを目指しましょう♪
u.yan氏のコメントにこだわった理由の一つが、タイトルに示した橋梁にありました。
HP◆●▼ ヤマトの視点 ▼●◆土木技術者列伝で名島川橋梁をご紹介させて頂いたことがございます。
この時、実は名島橋にするか、名島川橋梁にするか、悩んだ記憶があります。
そして、設計者のお名前に確信が持てなかったこと、並びに人となりを掴みきれなかったため、名島橋のご紹介を断念した経緯があったように思います。
名島橋
●全長:204.1m
●全幅:24.0m
●構造:鉄筋コンクリートアーチ橋(7連)
●完成:昭和8年3月
●設計者:後藤龍雄
●総工費:416,883円(S8当時)
名島橋は、福岡市東区の多々良川に架けられ橋で、北部九州地域と福岡都心部を結ぶ国道3号の道路橋として、産業・経済・文化の発展に大きな役割を果たしてきました。
名島橋を往来する車の数は、1日に約6万台。
まさに福岡の東玄関を飾るシンボルと言えます。
名島橋の設計者と言われている、福岡県第2号国道改築事務所の所長・後藤龍雄氏や、工事主任として名島橋の建設を支えてきた、名島大橋建設事務所・公務課長だった七俵仙太郎氏をはじめ、数えきれないほどたくさんの人の夢と熱い思いが結集して、名島橋は誕生したと言われています。
着工から2年3ヶ月経過した昭和8年(1933年)、名島橋は無事竣工しています。
竣工式は、たくさんの来賓の参列を受け、随分と盛大に執り行われたようです。
この竣工式の様子は、当時の福岡日日新聞にも、大きく報道された記事が残されています。
名島橋が、地元にとってだけではなく、福岡発展のための明るい象徴であったことが理解できます。
随分と立派な橋梁であるとともに、美しさという点でも比類無き橋梁と言えるでしょう。
しかし、どうしても理解できないことは、どうしてあの時代にこのような橋梁が架設できたのかという疑問に対する答えです。
下に参考のURLを記載させて頂きますが、そこに記載されている仮説と解釈にを以下に掲載させて頂きます。
○中国侵攻を視野に入れた軍事物資輸送路として、または戦車が通れる広く頑丈な橋として建設されたのではないか?
白い御影石で覆われた名島橋は目立ちすぎて、軍用の可能性は低い。
○香椎沖の埋立地への輸送経路として、路面電車を通す計画だったのではないか?
既にJR(当時は国鉄)鹿児島本線と西鉄宮地岳線(旧・博多湾鉄道)があり、さらにこの二つ以外に鉄道輸送路が必要だったかと言われれば、はなはだ疑問です。
○名島水上飛行場を国際空港として活用するために広い道路が必要だったのではないか?若しくは、名島橋自体を非常時の滑走路として使用するつもりだったのではないか?
名島水上飛行場は、名島橋完成の翌年に閉鎖されています。また、名島橋から続く国道の整備は戦後のことですから、代用滑走路説は不確かと言わざるを得ません。
○大正12年に発生した関東大震災で、幅員の狭い橋の周辺で混乱が起きたことで被害が大きくなったと言われていることから、その教訓を取り入れて幅員を広くしたのではないか?
名島橋の兄弟橋である萬代橋が関東大震災後の架橋技術から学んだ部分が多かったことから、名島橋にもその考えが反映された可能性は否定できません。
それにしても設計者にお名前の上がっている後藤龍雄氏とはいったいどのような方なのか、この方がキーを握っているのだろうと思います。
福岡だと九州人さん、何か分かれば教えてくださいませんか?
お手数をおかけ致しますが、宜しくお願い致します。
【参考URL】
○名島橋歴史ロマン
○道守九州会議【vol1】名島橋
○名島橋
○近代化産業遺産(名島橋)
では今日もBreakThroughを目指しましょう♪
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名島のナ
名島(ナジマ)橋の「ナ」は、魏志倭人伝の奴国の「ナ」、もしくは同書にある倭の女王の部下、大夫の難斗の「ナ」ではないだろうかと思っております。
名島橋の下流にある小高い所が古城跡で、周囲の河口湿地帯と比べ”島”であった可能性は高いと考えてます。
名島橋の下流にある小高い所が古城跡で、周囲の河口湿地帯と比べ”島”であった可能性は高いと考えてます。
ウ~ムゥ
u.yan様
奴国の「ナ」もしくは難斗の「ナ」ですかぁ。
なるほどぉ。。。
ロマン溢れる御説ですね。
1000年先に「もしかして先祖はこんなことを考えてこれを造ったのか?」と思って頂けるようなモノを仕掛けることができれば最高だろうと思います。
土木とはそうしたものであるべき仕事だと信じています。
なにぶん名島橋の現地状況を存じ上げませんので、これ以上のコメントが不可能であることをお許し下さいm(__)m
u.yan様にはいつもこの拙ブログを気にかけて頂き、感謝に堪えません。
また、u.yan様の幅の広い視点にはいつも敬服致しております。
昨日コメントをお送り申し上げましたが、調子にのって書いておりましたら、送信時に「字数を削って下さい」とシステムに言われてしまいました(^_^;
したがって、ストーリーの無いコメントになってしまいましたことを、どうかお許し下さいm(__)m
いつもお越し下さり、貴重なコメントをありがとうございます。
また機会がございましたら、お立ち寄り下さるのを心待ちに致しております。
奴国の「ナ」もしくは難斗の「ナ」ですかぁ。
なるほどぉ。。。
ロマン溢れる御説ですね。
1000年先に「もしかして先祖はこんなことを考えてこれを造ったのか?」と思って頂けるようなモノを仕掛けることができれば最高だろうと思います。
土木とはそうしたものであるべき仕事だと信じています。
なにぶん名島橋の現地状況を存じ上げませんので、これ以上のコメントが不可能であることをお許し下さいm(__)m
u.yan様にはいつもこの拙ブログを気にかけて頂き、感謝に堪えません。
また、u.yan様の幅の広い視点にはいつも敬服致しております。
昨日コメントをお送り申し上げましたが、調子にのって書いておりましたら、送信時に「字数を削って下さい」とシステムに言われてしまいました(^_^;
したがって、ストーリーの無いコメントになってしまいましたことを、どうかお許し下さいm(__)m
いつもお越し下さり、貴重なコメントをありがとうございます。
また機会がございましたら、お立ち寄り下さるのを心待ちに致しております。